
コンセプトブック「文脈たちの宴」
2025年10月01日(水)〜11月03日(月・祝)
Book&Article
「秋の隕石」アーティスティック・ディレクターの岡田利規は、この舞台芸術祭を「文脈たちの宴」と表現しています。ここに接触した人々がより多様な文脈により深くアクセスするのを助けるため、「秋の隕石」はこの読みものを紙と電子版で無料配布します。特に上演プログラム各演目について、論考や対談などの形で背景や関連する事項を記述しています。日本語圏で初めて紹介されるアーティストのインタビューをはじめ、貴重な原稿が満載です。
この記事では、「文脈たちの宴」内の『「湯」からみる台湾史』を紹介します。
日本と台湾の共同による『誠實浴池』という作品を考える上で、その特殊な舞台設定が気になった方も多いのではなかろうか。台湾を彷彿とさせるある島国において、廃業して久しい廃銭湯(以下、不特定多数の客が利用できる浴場という意味で「公衆浴場」と呼ぼう)が「予約の絶えない人気風俗店」になっている──。このような空間が実際に台湾に存在するのかと、疑問を抱いた方も少なくないはずだ。
日本で生活している人々は、公衆浴場や銭湯とはどのようなものか、おおよそ共通のイメージを共有している──尤もまちなかの銭湯が減り続けている現代日本において、日常的に通っている人は少ないかもしれないが、映画やドラマで再生産された一般的な「銭湯」のイメージは持っているはずだ。しかし現代の台湾において、銭湯や温泉での入浴は、日常的に体験できるものだとはいえない。裸になって他人と入浴する体験は台湾で一般的と言えず、郊外の温泉地等において入浴することがあるかないか、というくらいである。
しかし、台湾の各都市内に、かつて日本と同じような公衆浴場が多数存在していたことはあまり知られていない。その背後には、複雑な台湾の歴史が見え隠れする。
ところで台湾の歴史の複雑性といえば、本作の中にもいくつかの要素が読み取れる。「政府が変わるたびに新しい軍服が用意されたんです」と男が語るセリフには、19 世紀以降、清朝、日本、中国国民党という外来政権が代わる代わる統治してきた台湾という島の特殊性が込められている。こうした特殊な複雑さは、実は台湾の公衆浴場にも表出している。換言すれば、台湾の公衆浴場からは、複雑な台湾の歴史の一端が見て取れるのである。本稿では、その概略をご紹介してみよう。
台湾は、1895 年から 1945 年にかけて日本に統治された。大まかに言ってしまえば、台湾における公衆浴場はこの日本統治時代の開始前後(19 世紀末)に持ち込まれたもので、日本統治時代の期間中に都市内外に多くが建設された。こうした浴場の存在が、台湾の人々の入浴習慣を形成していったのである。
お湯に体を浸して入浴するタイプの公衆浴場としては、日本統治時代の直前にも 1 軒だけ台北に「詠沂園」というものがあったらしい。この浴場は清朝の巡撫・劉銘伝が中国大陸のスタイルを持ち込んで作ったものとされている。その後、1895 年から日本の統治が始まると、「湯屋」と呼ばれた日本風の公衆浴場が日本人の手によって続々と建設され、料亭や温泉旅館と合わせて市街地に増えていった。当初は入浴習慣のなかった台湾人も徐々に入浴するようになり、だんだんと台湾人も都市内の湯屋を経営し始めた。さらに、地方都市や郊外部では、台湾総督府が続々と公設浴場を建設していった。そして時代を同じくして、郊外部や山岳部では温泉開発が進み、日本とよく似た温泉地が開発されていった。このようにして、一気に広まった公衆浴場によって、台湾中に入浴文化が広がっていったのであった。
面白いことに、当時の新聞には日本人は「湯の国民」であるから、台湾の人々の入浴趣味を「湯好きの国民」を作らねばならぬ、というイデオロギー色の強い論調が見られる。(台湾日日新報社[1911]「風呂屋と臺北」台湾日日新報 1911 年 12 月 5 日)。日本の台湾統治は、確かに台湾を「湯の国」に変えていったのだ。
当時の銭湯の空間は、どうだったのだろうか。台湾の銭湯は「大体の構造も内地と同様」であり、番台と男女に分かれた脱衣場、そして洗い場と浴槽という構成は日本の銭湯と変わりがなかったらしい(台湾日日新報社[1906]「臺北の洗湯」台湾日日新報1906 年 12 月 14 日・15 日)。ただし細かいところには相違があり、風呂桶は、仕入れ値の高い木製ではなく、ブリキやトタン製の金盥が用いられていたという。本作の舞台となる浴場の背景には立派な海と山の壁画が掲げられているが、これは台湾に流入した日本式の銭湯を象徴するモチーフだと言えるだろう。
しかし、台湾にあったのは、このような日本人が作った日本式の風呂だけとは限らない。中国にルーツを持つ独自の入浴文化として、例えば台湾人が経営していた中華式の貸切個室風呂は日本統治時代の間も存在したし、戦後には、中国大陸からの人口流入とともに「上海式浴室」が台湾に導入された。これは日本の公衆浴場とはずいぶん違い、マッサージやアカスリなどが充実したタイプの浴場であり、ゆっくり長時間くつろぐ社交の場でもあった。21 世紀の現代においては、日本にルーツを持つ浴場も上海式浴室も、どちらも都市内からほぼ姿を消してしまっているが、温泉地にはまだ公衆浴場がちらほらと残っており、地元客に愛されている。
ということで、一口に台湾の入浴文化といっても、その文化的背景は様々だったことがわかる。この浴場の多様性、いわば各地の入浴文化のごった煮のような状態こそが、台湾の複雑な歴史を示していると言えよう。
さて、本作の公衆浴場は、「風俗店」と明言される特殊な浴場である。すでにみなさんもご承知のことと思うが、歴史上、浴場と性風俗との関係は切っても切り離せない。江戸時代の日本では銭湯で客にサービスをする女性を湯女といったが、時には売春に従事していたことが記録に残っている。台湾でも、遊廓地として名高かった台北の艋舺には複数の公衆浴場が存在していた。
公衆浴場の存在や存続は、「裸」に対する観念とも関係がある。日本統治時代の台湾では、裸で他人と入浴する文化は一定程度当時の台湾人の間にも広まっていたようだが、戦後に台湾にやってきた「外省人」たちは、日本人のような裸での公衆浴場への入浴に馴染みがなかった。
そのような背景のもと、台北における日本式公衆浴場は、戦後、全裸での共同入浴に馴染まない外省人に対応するため、一部が個室風呂に変化した。ところがこの個室風呂は1970 年代〜80 年代にかけて違法売春の温床ともなっていった。これらの違法売春は1980 年代に警察の摘発に遭い、各施設にも大きな打撃となった。結果、都市内公衆浴場の衰退の一因となっていったのだった。とはいえ今でも、公衆浴場の流れを汲む都市内の男性専用サウナ施設では、一部に女性による性的サービスの提供があるというし、先に述べた上海式浴室の一つは、男性限定であったことからゲイサウナへと業態を変えて現在も存続している。純然たる「公衆浴場」が都市部からほぼ姿を消した現在においても、こうした形でその系譜を受け継ぐ施設が存在することは、本作の舞台設定を読み解く手がかりとなるだろう。
次に都市内だけではなく、郊外の温泉地に目を向けてみると、台湾の温泉地と「セックス・ツーリズム」の関連性の指摘も避けては通れないテーマと言える。先にも挙げた著名な温泉地たる北投温泉では、ベトナム戦争真っ只中の 1969 年、TIME 誌に裸の米兵と2 人の女性が入浴している写真が掲載され、問題化した。米兵のみならず、高度経済成長の流れに乗った日本人によるセックス・ツーリズムの舞台ともなっていた事実があり、国際的に批判された経緯もある。当時合法だった売春はその後 1979 年に非合法化され、温泉地を舞台とするセックス・ツーリズムは下火になっていったものの、こうした歴史が温泉地の発展と形成に多大な影響を与えていた事を忘れてはならないだろう。同時に、本作で登場する男性客がそれぞれ軍歴を持っている点も見落とせない。日本統治時代でも、その後の国民党統治下でも、各都市の遊廓は大なり小なり軍との関連を持っていたと言える(浴場ではないが、戦後における金門島の「軍中楽園」は有名であり、2014 年には映画にもなった)。
このように、ただ台湾の「公衆浴場」を考えるだけでも、その背景にはこれだけの奥行きがある。私がここに書いていることはその一部に他ならないが、『誠實浴池』という作品を通じて、語られてこなかった台湾の複雑な歴史に思いを馳せていただければ幸いである。

台湾の社寮公共浴室(筆者撮影)
都市デザイナー。台湾の都市・生活施設の形成史を研究しながら、国内外で都市と建築の空間設計、計画策定等の事業を行っている。合同会社流動商店代表/東京大学特任研究員/東京藝術大学助手/博士(工学)。